オーストラリアの歴史

 

2010年7月更新(2013年7月2日写真追加)

 

~1500 年代 先住民アボリジニの時代

先住民アボリジニは、ニューギニアとオーストラリア大陸が地続きであった、約4万年程前の第四氷河期(洪積世末期)頃に、ニューギニア方面から移動してきたと考えられている。大陸が分断され、オーストラリアに取り残されたアボリジニは、世界各地に広まっていった農耕文化も伝わらず、狩猟・採取による生活を続けていくことになる。

その後、ニューギニアやインドネシア、中国などとの交易が始まり、オーストラリア大陸が世界に知られるようになっていく。1426年に訪れた中国のナマコ採集船の船員による地図に、オーストラリア北西海岸部が描かれている。

 

1500~1600 年代 ヨーロッパ人の進入

1521~32年頃、オーストラリアを最初に訪れたヨーロッパ人(白人)ポルトガル人が、香木などの価値のある物を求めて現れるが、何も発見でき ず、たいした注目も浴びずそのまま過ぎる。1600年代に入り、東方貿易に力を入れていた、オランダによる本格的な調査が始まる。

1619年には西岸、1622年には西南岸を立て続けに調査したオランダは、オーストラリアを「新オランダ」と名づけ、1641年 には、調査総監であったタスマンが、現タスマニアを当時のオランダ東インド会社総督の名をとって「ヴァン・ディーメンズランド」と名づけたが、たいした収 穫も得られない(香辛料など目当てのものがないため)この大陸を重要とは見ていなかった。

 

1700 年代  イギリスによる占領地化

18世紀に入り、1770年イギリス人探検家キャプテン・クックが現シドニー郊外のボタニー湾に上陸し、東海岸を調査、1785年その一帯を 「ニュー・サウス・ウェールズ」と名づけ、英国王室による領有宣言をする。

1788年1月26日初代総督アーサー・フィリップ率いる英船団が、流刑囚778名、海兵隊とその家族約700名を連れて、ポート・ジャク ソンに現れ、本格的な入植が始まる。この時点で、先住民アボリジニは英国王室領不法滞在者となり、しいたげられ、奴隷に されるなど屈辱の日々が始まることとなる。これが現在の「オーストラリア・デイ」となっている。1793年炭坑の発見や羊毛生産などで開拓を広げ、自由移民が始まる。

 

1800 年代 ゴールド・ラッシュと白豪主義

1829年イギリスによる正式な領有宣言が出される。

1851年カリフォルニアのゴールド・ラッシュに乗じて、金脈があるというウワサが広まり、ヨーロッパを中心に、アメリカ、中国などから大量の移民入植者が殺到。
その後、ビクトリアで本当に大きな金脈が発見され、NSWからビクトリアに大勢の人々が移動していく。白人達は、ゴールド・ラッシュで大量に流れ込んできた、低賃金で働く中国人移民に脅威を覚え、白人を優先し、アジア系移住者を排除する「白豪主義」が推進されいく。

 

1900 年代 国際社会への歩み

1901年オーストラリア連邦成立。イギリスの自治領となる。

1914年第一次世界大戦勃発。イギリスがドイツに宣戦布告して始まった戦争に、自治領であるオーストラリアは当然のごとくかりだされ、太平洋地域に点在していたドイツ領を占領し、ニュージーランド軍との混成部隊「アンザック軍」を結成して、ヨーロッパ戦線に参入。約6万人もが命を落とすこととなる。

第一次世界大戦終戦後のパリ講和会議で、赤道以南の旧ドイツ領を正式に獲得。国際連盟への加入が認められる。

1941年第二次世界大戦勃発。オーストラリアは、アメリカ、イギリスを中心とする連合軍として参戦。1942年2月には、北部ダーウィンを中心とする一帯を日本軍に攻撃され、町は壊滅状態となる。

1942年5月には、シドニー湾内のフェリーが日本軍の特殊潜水艦部隊によって撃沈され、さらに、シドニーの住宅地、ニューキャッスルなども外洋からの砲撃を受ける。

この頃より、日本のアジア侵略やインドネシアの独立運動など、アジアへの注目が高まり、白豪主義による国家運営の限界を感じるようになっていく。

1950年 朝鮮戦争に積極的に参戦。

1951年 太平洋安全保証条約(ANZUS)に加盟。

1955年 東南アジア条約機構(SEATO)に加盟。

1960年に入ると、ボーキサイトやウランなどの需要の高まりとともに経済がよくなり、国民生活水準も向上し、東ヨーロッパや中東からの移民が増加、他民族社会へと移行していく。

1967年 184年にも渡って虐げられてきた、アボリジニの公民権が認められ、その後1976年にはアボリジニー土地法案が成立。

1980年代に入って、国際的な経済不況のあおりを受け、インフレ率・失業率がともに10%を超え、1983年の総選挙で当時のフレーザー政権が敗北。

1984年 ホーク首相率いる、新・労働党政権が発足。

1991年に開かれた労働党大会で、ホーク首相が敗れ、キーティング新政権が始まり、イギリスを中心とする欧米志向から離れ、アジア・太平洋圏への歩み寄りを優先するべく、立憲君主制を廃止共和制へと移行していく姿勢をとる。

1996年に行われた総選挙で、労働党が敗れ、自由・国民党連立政権が勝利。ジョン・ハワード新内閣が発足。

2007年の総選挙で連立与党が破れ、労働党が再び政権を握る。政権交代時に労働党党首であったケビン・ラッドが首相となるが、2010年6月の劇的な党首交代劇により、副首相であったジュリア・ギラードが党首となる。
これにより、オーストラリア初の女性首相が誕生した。

注意)記載の情報は、2010年7月に最後の項に加筆。初稿:1999年(旧サイトにて)

この記事を書いた人
Miki Hirano平野 美紀 icon-link icon-twitter icon-facebook icon-google-plus
人工物よりも自然に魅せられ、6年半暮らしたロンドンからオーストラリアへ移住。トラベル・ジャーナリストとして各種メディアへの執筆、ラジオ/テレビ出演などで情報を発信しながら、メディア・コーディネーターや旅行情報サイトの運営も。目下の関心事は野生動物とエコ。シドニー在住18年。
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